400年前の京都で起きた“平和のプレゼンテーション”
江戸時代初期の京都で、一つの大きな“見せる政治”が行われた。寛永3年(1626年)、後水尾天皇が二条城を訪れた「寛永行幸」である。
行幸とは、天皇の外出を意味する。古代から続く言葉だが、寛永行幸が特別なのは、それが単なる天皇の移動ではなかったことだ。徳川秀忠、家光が後水尾天皇を二条城に迎え、朝廷と幕府の結びつきを、京都の人々に大々的に示した。
大坂の陣(1614~1615年)で豊臣氏が滅亡してから、まだ10年余り。人々の記憶には、戦乱の残像が残っていた。その京都を、武装した軍勢ではなく、絢爛豪華な行列が練り歩く。そこには「もう戦いの時代ではない」という強いメッセージがあった。
現代のビジネスに引き寄せれば、これは新体制の発足を内外に示す、巨大な“発信の場”だったと見ることもできる。統治の安定、流通の回復、都市の活性化、そして新しい文化の担い手の登場。寛永行幸と寛永文化を読み解くと、組織や市場が成熟していくプロセスまで見えてくる。では、この400年前の出来事を、今私たちはどう見ればいいのか。寛永行幸と寛永文化の意義、そして今年注目すべき見どころについて、大谷大学講師の西山剛さんに聞いた。

西山剛(にしやま・つよし)
大谷大学国際学部国際文化学科講師。博士。日本の歴史文化、近世京都の文化・芸術に関する研究を行う。寛永行幸400年を機に、寛永行幸と寛永文化の意義を、現代の視点から分かりやすく伝えている
「天皇が二条城を訪れた」の何が画期的だったのか
――まず、寛永行幸の前提として、「行幸」とはどのようなものなのでしょうか。
【西山剛さん(以下略)】行幸とは、天皇の外出を意味します。非常に古い言葉で、『日本書紀』などにも天皇の移動に関する記述が見られます。古代には、天皇が各地に赴き、土地の人々と交流したり、その土地の神と関わったりすることが重要な役割と考えられていました。
ただ、平安、鎌倉、室町と時代が進むにつれて、天皇の行幸は次第に縮小していきます。天皇の権威が高まれば高まるほど、外出に伴うリスクも大きくなるからです。遠方への移動は少なくなり、回数も減っていきました。
その中で、室町時代には足利義満が北山殿に天皇を招き、豊臣秀吉は聚楽第に後陽成天皇を招きました。強い統一権力が天皇を迎えることで、自らの権威や支配のあり方を示す。寛永行幸もその流れの中に位置づけられます。
――寛永行幸は、徳川政権にとってどのような意味を持っていたのでしょうか。
関ヶ原の戦いの後も、豊臣家はすぐに消えたわけではありません。徳川の支配が決定的になるのは、大坂の陣で豊臣氏が滅亡した後です。そこで次の課題になったのが、朝廷と幕府がどのような関係を築くかでした。
その流れの中で、徳川秀忠の娘である和子が後水尾天皇に入内します。いわゆる公武和合、公武融和です。「公」は朝廷、「武」は武家。朝廷と幕府が手を携え、列島を平和に治めていくという理想像が打ち出されていきました。
――その理想像を、京都の人々に見せる場でもあったのですね。
まさにそうです。寛永行幸は、天皇が京都における“武家権力の象徴”である二条城を訪れ、武家から歓待を受ける催しでした。朝廷と幕府が密接に結びついている姿を、民衆に見せる意味があったのです。
大坂の陣からまだ10年ほどしか経っていません。人々の中には、大規模な戦いの記憶が残っていたはずです。その京都を、鎧甲冑の武士ではなく、華麗で工芸の粋を集めた行列が練り歩く。それは大衆に「ここまで来たか」と思わせるような、安心感を与えたのではないでしょうか。


――寛永行幸を「平和のパレード」と見ることもできるのでしょうか。
そうですね。朝廷と幕府が手を携え、列島内の統一権力を打ち立てたことを象徴する出来事だったと言えます。戦乱の時代から、泰平の時代へ。その転換を視覚的に示したのが寛永行幸でした。
しかも、それは単に権力を誇示するだけではありません。武力ではなく、文化や儀礼によって安定を示したところに意味があります。人々は、華麗な行列を目にしたでしょう。そこに、戦いとは違う秩序、違う豊かさを感じたはずです。寛永行幸は、戦乱の終わりを人々に印象づける“平和のシンボル”でもあったのです。
戦争が終わり、流通が動き、文化が生まれた
――寛永行幸の後に花開く寛永文化は、どのような背景から生まれたのでしょうか。
大きいのは、治安の安定です。戦争が終わり、街道が整備され、流通路が確保される。そうすると、人や物資の移動が活発になり、お金も回るようになります。京都のような大都市には、文化を支える力を持った商人や町衆が再び現れます。
文化というのは、経済や流通と深く結びついています。流通が整うことで、物も人も動きます。お金も動きます。その結果、文化に資金が集まり、新しい担い手が出てくる。戦争は、文化や流通の発展を大きく阻害します。大坂の陣以降、大規模な軍事衝突が消えていったことは、寛永文化の成立に非常に大きな役割を果たしました。
――平和が文化を生み、文化が都市の魅力を高めていく。これは現代にも通じる話ですね。
そう思います。安定があるから、人々が投資し、挑戦し、新しい価値を生み出せる。寛永文化は、そうした社会の余裕から生まれた文化でもあります。
――一方で、公武融和というと、朝廷と幕府が非常に仲良く手を取り合っていた印象もあります。実際はどうだったのでしょうか。
実は、朝廷と幕府、特に後水尾天皇と家光が、常に仲良かったわけではありません。幕府は天皇を自分たちの秩序の下に置きたい。一方で朝廷は、旧来の権限を守りたい。そこには軋轢(あつれき)があり続けました。ただ、大事なのは、軋轢があっても武力衝突に発展しなかったことです。決定的に破綻させない。直接攻撃をしない。そのことが、平和を維持し、流通を維持し、文化を発展させていきました。
――これもまた現代に通じる話です。意見や利害が一致しなくても、関係を壊さず共存することが、長期的には価値を生むことがあります。
その通りだと思います。寛永文化の背景には、そうした共存の知恵があります。平和とは、単に仲が良いことではありません。対立や緊張を抱えながらも、決定的な破綻を避けること。その中から文化が生まれていくのです。
権力者の文化から、町衆も参加する文化へ
――では、寛永文化の特徴を教えてください。
その前の桃山文化と比べると理解しやすいと思います。桃山文化は、織田信長や豊臣秀吉のような権力者が、狩野永徳や長谷川等伯、千利休といった才能を抱え、自らの権威を彼らに表現させる文化でした。権力者が文化を丸抱えしていた、と言えます。
一方、寛永文化では担い手が少し下がってきます。本阿弥光悦や俵屋宗達のように、町衆の側から文化を生み出す人々が登場します。
――文化の担い手が、権力者の周辺から町衆側へ広がっていったのですか。
そうです。もちろん、寛永文化にもパトロンは存在します。朝廷や幕府、武家、富裕層の支えはあります。ただ、文化の発信源が幕府や朝廷だけに限定されなくなるのです。寛永文化の担い手の多くは、作品を武家に届ける一方で、寺院や町衆のネットワークにも広げていく。そこには、自立した作品流通のルートがあります。
限られた権力者だけが文化を持つのではなく、町衆や富裕な商人も文化の担い手になっていく。そこが寛永文化の新しさです。
――旗印的な人物を挙げるとすれば、誰でしょうか。
本阿弥光悦と俵屋宗達は、やはり重要です。光悦は書、陶芸、出版など幅広く活動し、宗達は絵画で大きな存在感を示しました。
彼らには、もちろんパトロンがいましたけれど、文化の出どころや発信の仕方が、幕府や朝廷だけに限定されていないところが重要です。光悦の周囲には、京都の富裕層、武家、寺院などのネットワークがありました。本阿弥家は刀剣の鑑定などを通じて武家に近い存在でもあり、資金力もあった。そうした背景を持ちながら、光悦は書や陶芸、出版に取り組み、作品を広げていきます。
――文化人であると同時に、プロデューサーや事業家のような側面もあった。
そう言えるかもしれません。作品をどこに届けるか、誰に見せるか、どのネットワークで動かすかを知っていた人物です。また、小堀遠州も重要です。茶人、作庭家として知られ、仙洞御所の庭にも関わりました。寛永文化の古典復興的な性格を考えるうえでも、欠かせない存在です。
豪華絢爛だけではない。寛永文化の「余白」と「ルネサンス」
――作品の見た目や美意識にも、寛永文化らしさはありますか。
寛永文化の特徴の一つは、多様な価値観が並び立っていることです。桃山風の華麗な作風も残ります。たとえば日光東照宮や二条城二の丸御殿のように、隙間なく彫刻や装飾を施し、工芸技術を結集させた建築があります。
一方で、桂離宮のように、過度な装飾を避け、素木を生かしたシンプルで端正な建物も出てきます。非常に華やかなものと清楚で簡素なものが、同じ時代に並び立っている。そこが寛永文化の面白さです。

――「豪華絢爛」だけでは語れないのですね。
そうです。むしろ寛永文化の中核には、シンプルで、端正で、清楚な方向へ向かう美意識もあります。絵画でいえば、狩野永徳と狩野探幽を比べると分かりやすい。永徳は力強く、濃密で、画面を押し出すような表現をします。一方、探幽は余白を生かし、さっぱりとした画面をつくる。力で押すのではなく、間や余白を含めて見せる方向に変わっていきます。
――間や余白と聞くと「わび・さび」を連想します。この時代に生まれたものなのでしょうか。
そこは少し難しいところです。枯淡の美意識、いわゆる「寂」や「冷え」といった感覚は、室町時代に一つの極みに達します。わび茶も、珠光や千利休によって大成していきますが、その系譜は室町にあります。
その後、桃山時代に信長や秀吉のもとで、非常に派手で力強い文化が出てくる。そこから江戸時代に入り、もう一度、室町的な簡素な美意識が息を吹き返す。寛永文化は、そうした「回帰性」を持っています。
――新しい文化でありながら、古典への回帰でもあるのですか。
そうです。たとえば、本阿弥光悦は古典を出版します。『方丈記』『徒然草』『源氏物語』などを、豪華な紙や美しい文字で復刻する。単なる再出版ではなく、工芸品としての性質を備えた古典の本を作るわけです。
また小堀遠州も、室町的な枯山水だけでなく、さらに前の平安時代の庭に回帰し、歩いて楽しむ回遊式庭園の感覚を取り入れます。寛永文化には、戦国時代を飛び越えて古典へ戻り、それを新しい形でよみがえらせる力があります。いわば、寛永のルネサンスです。

400周年の京都で見るべき展覧会・作品・名所
――2026年は寛永行幸から400年の節目です。見るべき場所や展覧会を教えてください。
今年、寛永文化を体感するなら、押さえたいのが二条城、泉屋博古館、京都文化博物館の3カ所です。
まず注目したいのは、二条城です。寛永行幸の舞台そのものですし、二の丸御殿には、当時の空気を伝える障壁画があります。実際に後水尾天皇が目にしたであろう空間を想像しながら見ることができるのは、二条城ならではです。


泉屋博古館では、「二条城行幸図屏風」を中心に、寛永行幸を振り返る特別展が予定されています。行幸の行列を描いた屏風は、当時の京都がどれほど華やいだかを視覚的に伝えてくれる重要な作品です。徳川家から後水尾天皇に入内した東福門院和子ゆかりの品々も展示される予定で、朝廷と幕府、京都の文化人たちの交流を知るうえでも見逃せません。
また京都文化博物館では、寛永行幸を軸に、江戸時代初期に花開いた京都文化の粋を紹介する特別展が予定されています。本阿弥光悦や俵屋宗達らが活躍した寛永文化を、より広い視点から理解できる機会になるでしょう。


泉屋博古館 寛永行幸四百年記念特別展 寛永行幸と花の都の文化びと
開催期間:2026年9月5日(土)~2026年10月18日(日)
https://sen-oku.or.jp/program/202609_splendidparade400/
京都文化博物館 寛永行幸四百年祭開催記念特別展「寛永 太平がはぐくむ美」
開催期間:2026年9月19日(土)~2026年11月15日(日)
https://www.bunpaku.or.jp/exhi_special_post/20260919-1115/
――展覧会以外で、寛永文化を感じられる場所はありますか。
建築でいえば、仁和寺、清水寺、仙洞御所は重要です。仁和寺の金堂は、寛永期の内裏の紫宸殿が移築されたものです。
清水寺の本堂、いわゆる「清水の舞台」も寛永期の再建による姿を今に伝えています。清水寺は寛永6年に諸堂が焼失し、その後、家光の寄進によって本堂をはじめとする諸堂が再建されました。私たちが「京都らしい」と思って見ているものの中に、実は寛永時代の建築が結構あるのです。
仙洞御所の庭園は、小堀遠州の作庭とされ、寛永文化の美意識を体感できる場所です。池泉回遊式庭園のほか、屋根の唐破風や金具、建築の細部に注目しながら歩くと、かなり面白い見方ができます。
――「京都の名所」とひとくくりにせず、寛永というテーマで切り取ると理解が深まりそうです。
まさにそうです。京都を歩くとき、私たちはしばしば「古都」や「伝統」という大きな言葉で見てしまいます。しかし、その中には寛永という時代に形づくられたものが数多く残っています。400年という節目は、京都の理解度を一段上げる絶好の機会だと思います。
――400年前の文化史をたどることが、平和、流通、都市、ネットワーク、そして新しい価値が生まれる土壌を考えることにもつながる。西山さんのお話で、寛永文化が身近に感じられました。本日はありがとうございました。
photograph:Kan’ei Gyoko 400th Anniversary Festival Executive Committee
edit & text:d・e・w
