0.01秒でも速く走りたい。

スタートしたら、ゴールまでいかに集中を切らさずに走り切れるか。私たちレーシングドライバーは、常に100分の1、1000分の1秒の世界でしのぎを削り合っています。

速く走ることが命題でありながらも、集中力や技術力だけでは決して勝てない特殊なレースが存在します。毎年6月の中旬から下旬に開催される「ル・マン24時間」です。その名の通り、フランスのル・マン市にあるサルト・サーキットで開催される24時間の耐久レースです。

ル・マンは参加できるだけでも名誉なことですが、特に優勝チームには最大級の賛辞が送られます。世界三大レース、世界三大耐久レースと称されることに加え、「ル・マンには魔物が棲む」と囁かれるほど波乱や悲劇に満ち、それゆえに数々のドラマや伝説が生まれてきたレースでもあるからです。かのスティーブ・マックイーンが主演した『栄光のル・マン』に胸を熱くした人も多いでしょう。

ル・マンは一周13.6kmのコースを24時間走り続けます。トップチームになると平均時速は250km/hに上り、ラップタイムはおよそ3分18秒。普段の生活では60秒、60分を一区切りとして時が過ぎていきますが、このル・マンでは時間の捉え方が変わります。1周、3分18秒が時間の区切りとなり、私たちはいかにミスなくそのラップを積み上げていけるかに心血を注ぐのです。

各チームに所属するドライバーは3名。午後3時にスタートし、2時間半から3時間ごとに交代しながら24時間を走り抜きます。そのため、車から降りてから次に乗車するまでの休憩時間は、5時間30分程度になります。

この休憩時間の過ごし方はドライバーそれぞれですが、私はとにかく心も体もスイッチをオフにしたいタイプ。一人になり、2時間半くらいは必ずベッドに入ります。寝られたらラッキーですが、当然、寝付けないことも。そのような時でもじっと横になっています。次の乗車予定時刻の2時間半前には起きて、シャワーや食事を済ませ、1時間前には待機します。24時間で6回も心身のスイッチを切り替えることになるからかでしょうか、ル・マンの決勝は1年で最も長い1日と感じます。

運転中には、無線で前後の車の情報が入ってきます。

「前とは30秒の開きがある」
そう聞くと、まだ30秒もあるのかと感じます。

「後ろとの差は30秒だ」
こう聞くと、もう30秒しかないと感じます。

同じ30秒ですが、前にいるか後ろにいるかだけでも、まったく受け止め方が異なります。

その「まだ30秒」「もう30秒」さえも一律ではなく、時間帯や気象、コース状況によって深刻さが違うことも、面白いところ。雨の日に30秒を追い掛ける場合は、途方もなく離されているように感じます。

時間の感じ方が最も複雑なのは夜間です。体感速度がアップするにもかかわらず、視界が狭いために事故の可能性がぐんと高くなります。不思議なことに、マシントラブルも多い。2017年に私たちTOYOTA GAZOO Racingの車にモータートラブルが起きたのも、やはり夜間でした。

だから、とにかく早く夜が過ぎ去ってほしい。走行しているかいないかにかかわらず、いつも無事に朝を迎えたいと願っています。これは私たちだけではなく、みな同じ思いを抱いているはずです。よほどのチャンスでない限りは、誰もが無駄なリスクを取らずにレースを進めていきます。

そして長い長い夜を越し、誰もが待ちわびた太陽が上り始めると、いざ本当の勝負が始まります。各チーム、それまで抑えていた攻めたい気持ちが前面に出てきて、ボルテージは急上昇。午後3時のゴールに向けてさらに白熱した戦いの時間が始まるのです。

100分の1秒、1000分の1秒という極めて短い時間の勝負であると同時に、ル・マンはやはり24時間のレースだと痛感したことがあります。それは、2016年のレース。多くのメディアが「トヨタの悲劇」と報じたのでご存じの方もいるかもしれません。

私たちは、少なくとも23時間55分は完璧なレース運びをしていました。しかし、マシントラブルに見舞われてラスト3分のところで車が止まってしまったのです。しかも、ルールにより最終順位すらも付かず、悔しいとも悲しいとも言えない複雑な感情がチームを支配しました。

もちろん、ハンドルを握っていた私も、レース直後はとても落ち込みました。しかし、チームや私は、すぐに未来に向けて歩み始めたのです。なぜなら、私たちはそのレースで誰もがベストを尽くしたと言い切れたからです。勝負には負けたけど、自分たちには勝った。その誇りを胸に挑んだ2018年と2019年のル・マンで連覇を果たしたのです。

念願の初優勝を果たした2018年、私はいつもと同じく第3ドライバーの担当で、栄光のチェッカーフラッグを受けました。初めてのウイニングランは特に格別なもの。歓声に応えるためにゆっくりと80km/h前後でコースを一周しました。感動と充実に満たされた10分間でしたが、あっという間だったことを覚えています。

オン・オフのスイッチを6回も切り替える24時間。その途上にいる間は、とても長く感じます。しかし、終わってみるとあっという間だったと思える不思議。片付けをしているときに、みんなと「また来年」と話すときには、一抹の寂しさを感じます。ほかのスポーツでいえばオリンピックやワールドカップのようなものでしょうか。この24時間が生み出す濃厚さ、不可解さこそ、ル・マンに私や人々が引きつけられる理由かもしれません。

中嶋 一貴(なかじま・かずき)
1985年1月11日生まれ。愛知県出身のレーシングドライバー。2003年にフォーミュラトヨタ・レーシング・スクール(FTRS)のスカラシップを獲得以降、全日本F3、SUPER GT、ユーロF3、GP2などに参戦。2008年からF1に2シーズン参戦。2018年と2019年には日本人初のル・マン24時間連覇。2020年はWEC(FIA世界耐久選手権)とSUPER FORMULAに参戦予定。

direction:d・e・w
interview:Hiroshi Urata
Illustration:Hiroki Wakamura