髪の毛1本まではっきり見える試合がある
「普段から心がけているのは“2週間後の自分のために”という意識です。経験上、結果が良くなかった試合は、2週間前くらいにさぼっていた時期があったかもしれないと思って。リオオリンピックの頃からですかね。2週間後の自分をイメージして練習するようになりました。試合当日は誰もが頑張れると思いますが、2週間前にそれと同じような気持ちで頑張っておけば本番もしっかりできる。そう思うと、きついトレーニングも自然とこなせるんです。この2週間の習慣化が、さらにその先の目標達成の足がかりになっているように思います」
「アスリートとしての時間への意識は?」との問いにこう答えるのは、フェンシング男子エペの日本代表として今夏のパリ五輪への出場が内定した見延和靖選手だ。見延選手は2015年に日本男子エペ個人として初のワールドカップ優勝を果たし、19年には世界ランキングで日本人初の年間王者に輝いた。オリンピックでも16年のリオデジャネイロで個人6位入賞を果たし、21年の東京では団体で金メダルを獲得。近年の日本のフェンシング界を牽引してきた世界的なトップフェンサーである。
ポイントが決まるのはわずか0.04秒。これほど刹那的に勝負が決する競技なんて他にないだろう。加えて、フェンシングのフルーレやサーブルの種目では攻撃優先権が設けられているが、見延選手が専門とするエペにはそれがない。攻守どちらかに集中するのではなく、両方を同時にこなさねばならないのである。
「0.04秒となると当然、人間の反射やスピードを超えてしまっているので、そこで駆け引きというか、仕掛けや罠を張り巡らせて相手をはめていくようなイメージです。そのため相手の一瞬の気配の読み取り、それこそ剣を持っていない方の肩だったり、呼吸の仕方ひとつだったり、そういう部分の読み取りが重要になってきます。時には、相手の髪の毛1本まで見えたり、横で試合を観戦している人の顔まで見えたりすることもあるんですよ」
トップアスリートがよく口にするゾーンというものだ。今でも記憶に残っているのは2019年、コロンビアで開かれたグランプリでの体験だという。
「その時は、準決勝を目前にして控室から前の試合を見ていました。控室と試合会場との間はカーテンで閉ざされていたんですけれど、数センチだけ隙間があった。そこから試合を見ていたら、相手の剣の動きがしっかり見えて、相手が出てきそうだな、焦っているなという小さなサインも読み取れて、さらに控室の僕の横にいた女性の髪の毛まで見えたんです。自分でもスゴいな! と思いましたよ。その感覚のまま準決勝、決勝も戦えて、優勝することができた。それからはこの時に得た感覚を意図的に作るようにしています。具体的には、心拍を少し上げる、過呼吸に近い状況をつくってから試合に向かうと、より集中力が高まる感覚がある。完全にコントロールできるものじゃない気もしますが、似たような状況は再現できていますね」
オフからオンへ、切り替えに欠かせない包丁研ぎ
わずか0.04秒でポイントが決まる刹那的なスリルに加えて、とりわけエペの種目にはもうひとつ、特有の面白さがある。番狂わせが起きやすいことだ。過去の世界大会を振り返っても、ランキング40位、50位の選手が表彰台に上がることも珍しくない。
「ランキング100位くらいまでなら誰が優勝してもおかしくない。そう言われるほど、エペという種目は実力通りの結果にならないんです。自分でも、調子がいいなと思っていても勝てなかったり、反対に不調でも勝てることがある。調子良くて勝てることのほうがまれですよ」
実力や調子と結果が必ずしも、というよりもほとんど一致しない競技に挑むからこそ、見延選手が大切にしていることがある。
「アスリートとしての一番大切な能力がピーキング、ピークをうまくつくることだと思っています。もちろん高い意識と集中を長期間維持できるのがいいのですが、それはできない。やろうとした時期もあったけど、結局反動で大きく崩れてしまうという経験もしました。だから今は、意図的にオフをつくって一度コンディションを落とし、そこから徐々に上げてピークに持っていくという方法を取っています」
そして、そのピーキングのファーストステップとして欠かせないのが「包丁研ぎ」だという。
「オフからオンに移るときが、精神的にも体力的にも一番エネルギーを使います。いきなりトップギアで練習するのも難しいし怪我にもつながるので、まずは一番大事な心の部分から整えるという意味で、包丁を研ぎます。もともとは僕の地元が刃物で有名な福井県の越前市で、包丁を頂いたことがきっかけです。世界でもトップクラスの包丁を作っている職人さんの手仕事に感動しましたし、日本代表である前に福井代表であるという誇りも強く感じました。この包丁を研いでいると無心になれるというか、心の中の器を一度きれいにできる効果があると感じていて。きれいになった器の真ん中に目標をぽんと置いて、じゃあこういうトレーニングをやろうとプランニングしていきます」
効果を聞けば、瞑想に近いものかもしれない。包丁研ぎは数十分から、長いときだと1時間以上に及び、没頭するあまり指紋が消えそうになることもあるという。では、今夏のパリ五輪に向けて、そのきれいに整えた心の器にどんな目標を置いたのか。
「エペという種目は実力通りの結果にならないとお話しましたが、それはいまだかつてエペを極めた人がいないからだと思っていて。僕が到達したいところは史上最強のフェンサー。エペの極意のようなものをつかみ取りたい。その途上にオリンピックのメダルがあればなおいいですし、もちろん勝ってこそ証明できる部分があるので、そこはもう本気で挑みたいですね」
心を整えるため、あるいは集中を高めるためにアスリートは各人各様の習慣を持つ。包丁研ぎというのはどこまでもユニークに思えるが、その背景や理由を知れば腑に落ちる。重要なのは自分に合っているかどうか。「トップの選手と同じことをやっていても1位になれない」と見延選手も説く。新しさに貪欲な姿勢が次への扉を開くということだろう。スポーツの世界に限らず、トップに上り詰める人に共通する普遍の真理である。
photograph:Hisai Kobayashi
edit & text:d・e・w