レース中は永遠、ゴールすれば一瞬
「やっぱりしんどいときや体調が悪いときは、時間が長く感じますね。ただ、レース中はほとんど永遠のように感じるんですが、終わってみたら一瞬なんです。不思議なものですけれど、どれだけ苦しんでもあっという間だったなって思うんですよ」
レース中の時間の感じ方についてこう話すのは、大阪市消防局に勤務しながら、国内外のトレイルランやフルマラソンのレースに出場する土井陵さんだ。
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土井さんは小さい頃から登山に出かけ、バスケットボールに熱中するなど生来の運動好きだったが、走ることに本格的に目覚めたのは30歳になってから。その才能はいきなり開花し、数年後にはウルトラトレイル・マウントフジ(UTMF)やウルトラトレイル・ドゥ・モンブラン(UTMB)といった国内外のトップレベルのレースで好成績を残す。
そして圧巻だったのが、2022年のトランスジャパンアルプスレース(TJAR)である。TJARのコースは富山県の日本海岸をスタートし、北アルプス、中央アルプス、そして南アルプスを経て静岡県の太平洋岸のゴールまで、その総距離は約415km、累計標高は2万7000m。過酷さでいえば世界でも屈指のレースである。
このTJARの2022年大会に当時40歳で挑んだ土井さんは、序盤から後続を引き離して独走し、大きなトラブルに見舞われることなくそのままフィニッシュ。TVクルーの取材に「結構、一瞬でしたよ」と答える土井さん。それまでの大会記録を6時間以上も上回る、驚異的な新記録での優勝だった。
レースの結果を左右するタイムテーブル
現在は100マイル(160km)レースを中心に、TJARのような長距離レースやロードレースに出場する土井さん。「準備が結果を左右する」と話すように、どんなレースでも周到な準備を欠かさないのが土井さん流だ。とりわけトレイルランのレースでは時間への意識が一段と高まる。
「100km以上のレースでは大抵、コースを10~20kmごとに区切って、その区間を何分で走る、というようにタイムテーブルを作ります。100マイルレースだとだいたい10区間くらいですね。レース全体で考えると時間のずれが大きくなってしまうので、細かく区切ってプラス何分、マイナス何分というように。コースを知るために現地に行ける場合は試走して、海外のレースのように試走ができない場合は、自分とレベルが近い選手の記録などを参考にします」
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レースの序盤や距離が短い区間は5分単位の精度で時間を割り出し、さらに体調や天候など不慮の変化に対応するべく複数のプランを立てる。こうしたタイムテーブルを組む選手は他にもいるが、土井さんの特徴はそのタイムテーブルと実際のタイムとのずれが少ないことにある。
「もちろん好不調やタイムテーブルの精度にもよるのですが、そこに合わせるのが得意といいますか。あとは一定のペースを刻むことも長けているのかな。ロードレースの練習で、1km3分45秒のペースで10kmまで、1秒のずれもなく走れた時は気持ちよかったですね」
そしてもう一つの取り柄が、「あかんかったらしゃあない」と割り切って受け入れる潔さだ。
「もちろん悪い時もあります。その場合は、駄目だ、駄目だとなるんじゃなくて、じゃあ何ができるのか、何をしなきゃならないのか、という思考に頭を切り替えます。遅れているときは、とりあえずこの区間を耐えて最小限の遅れで収めよう、次の区間はまた仕切り直そう、というように。次の区間になったら、遅れがゼロ秒からスタートと考えると、気分的にも楽になって仕切り直せることが多くて。ゴールとか先のことはほとんど考えていないですね。一つひとつです」
「来たー!」と高ぶったTJARの瞬間とは
「1秒のずれもなく走れた時が気持ちいい」と語る土井さんにとって、近年で最も印象深いレースが2024年のTJARだという。2022年大会を新記録で優勝した土井さんは、2連覇をかけて2024年大会に臨んだ。今年のレース用に組んだタイムテーブルは、前回の自身の結果を上回るもの。つまり、タイムテーブル通りに走れば大会記録を塗り替えることになる。
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8月11日の午前0時、富山湾に面する早月川河口からスタート。ロードの登り30kmほどを走り抜けて馬場島へ。ここから剱岳、立山、薬師岳、黒部五郎岳といった北アルプスの名峰を越える。
「2024年のTJARの序盤は、タイムテーブルがほぼビンゴ! だったんですよ。北アルプスに入ってスタートから20時間くらい過ぎたところに、双六小屋というチェックポイントがあります。タイムテーブルでは20時間30分と組んでいて、実際に僕が着いたのが20時間31分。20時間以上走ってきて、1分のずれしかなかった。その時は、来たー! っていう気分。今振り返っても、ゴールした瞬間より気持ちよかったですね」
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北アルプスを快調に越えると、約70kmのロードを経て次の中央アルプスに取り付く。この段階でもタイムテーブルから30分も前後しないペースをキープし、途中の宝剣山荘でのずれは15分。1日と17時間以上も走ってわずか15分の遅れ。大会記録の更新も十分に有り得るペースだった。
だが、その後の中央アルプスで足指にできたまめが悪化。大幅なペースダウンを余儀なくされるどころか、あまりの激痛から“棄権”も頭をよぎったというが、一つひとつの区間に集中しながら乗り越えてついにフィニッシュ地点へ。堂々たる連覇を遂げた。
「トレイルランは自然の中でのスポーツなので、外的要因というか、不可避の事態がどうしても発生してしまう。それはもう受け入れるしかないんですけれど、それ以外の準備は、できることは全てやるくらいに徹底する。いい準備が結果につながると考えていますから」
「別次元」「レベルが違う」などと、土井さんをさながら超人扱いするような声も多いが、そのベースには緻密な計算に基づく地道な時間管理がある。時間と切っても切れないアスリートであるが故に、時間をおろそかにすることはない。
photograph:Hisai Kobayashi
edit & text:d・e・w