2017年1月、A.ランゲ&ゾーネを深い悲しみが包んだ。ブランド再興の祖であるウォルター・ランゲ氏が、SIHH会期中に急逝したのである。92歳だった。

A.ランゲ&ゾーネは、1845年にフェルディナント・アドルフ・ランゲがドイツ・グラスヒュッテに開いた時計工房をルーツとする。第二次大戦後のドイツ東西分断を機に東ドイツに接収され、ブランドの歴史が一度は途絶えている。それから40年以上が経った東西ドイツ統一後の1990年にブランド復活を果たすことになるのだが、その一番の功労者がランゲ家4代目、創業者を曾祖父に持つウォルター・ランゲ氏だった。

1815“ウォルター・ランゲへのオマージュ”

2018年5月13日、フィリップスのオークションに出品された腕時計は、このウォルター・ランゲ氏へのオマージュとして製作されたものだ。ウォルター・ランゲ氏がブランドにとってかけがえのない人物だったことから、このオマージュモデルのコンセプトも“唯一無二”となった。ウォルター氏は創業者フェルディナントを敬愛してやまなかったため、当時の懐中時計をテーマとした「1815」が選ばれた。ランゲでは生産数限定のごくわずかな上位モデルでしか使用されなかったステンレススティールをケースに用い、ダイヤルはブラックエナメル、そして内部のムーブメントにはウォルター氏が好んだジャンピングセコンド(秒針が1秒で1ステップする運針機構)が組み込まれた。こうして完成した世界で1本のユニークピースは、「1815“ウォルター・ランゲへのオマージュ”」と名付けられた。

「1815“ウォルター・ランゲへのオマージュ”」。ステンレスティールケース。ケース径40.5mm。手巻き。アリゲーター・ストラップ。世界限定1本
ダイヤルはブラックエナメル。ウォルター・ランゲ氏が伝統工芸技術に熱意を注いだことにちなむ。
ジャンピングセコンド搭載の自社製キャリバーL1924。ケース裏に「UNIQUE PIECE」の刻印が見える。

さらにこのモデルはチャリティーオークションにかけられることになった。A.ランゲ&ゾーネ本社CEOのヴィルヘルム・シュミット氏はその理由を次のように述べる。「ウォルター・ランゲの遺志をどのような形で受け継ぐべきか考え抜いた。ウォルターは生前、とりわけ不遇な環境に置かれた若者の健全な成長と幸福を願っていたため、チルドレン・アクション財団に寄付することを選んだ」。

チルドレン・アクション財団とは“子供はみな、子供らしく生きる権利を有する”という理念を掲げ、1994年の設立以来8万人以上の子供たちを支援してきたスイスの財団である。オークションの収益金は外科医療プログラムに役立てられることとなった。

エスティメートを設定しなかった理由

A.ランゲ&ゾーネがウォルター・ランゲ氏へのオマージュモデルを製造し、オークションに出品することを発表したのが2017年12月のこと。それからおよそ半年後の2018年5月に入札が行われる段取りとなった。このオークションを担当したフィリップスの東京オフィスでシニア・コンサルタントとして勤務する藤本和彦さんは、入札前からこの競売が盛り上がる予感がしていたという。

「まずこのロット(注:出品作品)はチャリティーオークションだったため、通常は設定するエスティメート(注:落札予想価格)を設定しませんでした。加えて、ランゲの協力の下、各都市でイベントも実施したため下見会では問い合わせが多数。手応えはありました」

オークショニアは時計専門家として有名なオーレル・バックス氏。

入札当日もまた普段とは異なる空気が流れていたという。「通常のオークションでは入札者の名前を読み上げることはまずありませんが、今回はチャリティーということもあり、入札するたびにオークショニアがその方の名前を口にするという異例の進行でした。それも手伝ってか会場は盛り上がり、かなりのスピードで金額が上昇しました。やがて60万スイスフランくらいで止まり、ここから会場にいた入札者と電話入札の方の競り合いがスタート。その後タイの顧客からもオンライン入札があり、三つ巴の入札合戦となりました」。

落札価格は9300万円超え

この3人の競り合いが決着を見たのは、それから10万スイスフラン以上も上昇した後のことだった。結局ハンマープライスは70万スイスフラン、落札総額は85万2500スイスフラン(71万3627ユーロ、バイヤーズプレミアム込み)となった。ためしに5月14日のスイスフラン/日本円の始値(1スイスフラン=109.6円)で換算すると、なんと9343万4000円。ステンレススティール製の3針時計が、である。この金額には藤本さんも驚いたという。

予想をはるかに上回る値段がついたことについて、藤本さんはこう話す。「この機会を逃すと二度と手に入らないことがコレクターの心に火を付け、またチャリティーのためいくらでも構わないと思っていた顧客もいたようです。さらに、今秋にはこの時計のイエローゴールド、ピンクゴールド、ホワイトゴールドの各モデルが本数限定で製造されるのですが、このオークションの落札者にはそれらのシリアルナンバー“1”のモデルを購入する権利が与えられるという特典も入札を後押ししたと思います。唯一無二の時計、特別な権利が手に入るのであれば、この金額でも安いと思う人もいたようです。アンダービッダー(注:最後から2番目の入札者)も予算の制限はなかったかもしれませんが、競っている相手がいつまでも下りないと感じたため1ミリオン(100万スイスフラン)に達する前に諦めたのかもしれませんね」

オークション終了後、コメントを発表するヴィルヘルム・シュミットCEO(左)。右はチルドレン・アクション財団のベルナール・サブリー氏。

こうして落札したのは、A.ランゲ&ゾーネをはじめ様々なブランドの時計を蒐集する、世界的にも著名なコレクターだそうだ。この結果を受けて、ヴィルヘルム・シュミットCEOは「われわれの期待を大きく上回る成果が得られた。ウォルター・ランゲが常々考えていたように、チルドレン・アクション財団の活動に大きく貢献できることを嬉しく思う」と発表。さらに後日、当編集部に以下のメールを頂戴した。

「再興の祖であるウォルター・ランゲを偲び、捧げるためにつくられた時計が、A.ランゲ&ゾーネの歴史の中で最も高い金額で落札されたことを、心から嬉しく思っています。本質的で控えめなデザインに包まれて再び蘇った曽祖父(注:ブランド創業者、フェルディナント・アドルフ・ランゲのこと)による技術(注:ジャンピングセコンド機構のこと)が、このように大きな成功を収め、素晴らしい目的のために役立てられることを、ウォルター・ランゲもとても喜んでいるでしょう」

text:Hiroaki Mizuya(d・e・w)