変化の時期を迎えつつある2019年のSIHH

新しい年が幕を開けると高級時計のシーズンが訪れる。新作腕時計の国際的な展示会がスイスで開催されるからだ。そのうち最も歴史が古く、最大の規模を誇るのがバーゼルワールドで、ここ数年は3月ごろに開催されている。その次に挙がるのがSIHH(Salon International de la Haute Holorgerie)、通称ジュネーブサロンである。こちらは年明けすぐの1月に開催されることが多く、バーゼルワールドが一般人も入場できるフェスティバルのような印象であるのに対して、SIHHはサロンと銘打つことからも分かる通り、招待客のみが参加できるエクスクルーシブな雰囲気を特徴とする。

SIHHはもともと、カルティエを中核とするヴァンドーム・グループ(現在のリシュモン グループの前身)が1991年から始めた時計展示会で、その後、オーデマ ピゲやパルミジャーニ・フルリエといった大手グループに属さない独立系ブランドを加えて規模を拡大。近年はジラール・ペルゴやユリス・ナルダン、エルメスといった名門ブランドもバーゼルワールドからSIHHへと新作発表の場を移し、さらに小規模ながら独創的な時計をつくる新進気鋭のブランドも取り込んで拡大してきた経緯がある。

SIHH会場は全ブランドのブースの外壁が白で統一された高級感のある空間

顧客との結び付けを強めたいブランドの狙いとは

30回という節目の年を来年に控え、このSIHHに新しい局面が訪れたようだ。昨年末に、ヴァン クリーフ&アーペルが今年のSIHHに出展しないことを宣言、さらにオーデマ ピゲとリシャール・ミルが今年2019年を最後にSIHHへの出展を取りやめるという発表を行ったのである。ヴァン クリーフ&アーペルはジュエリーをメインに展開するブランドのため想定内だったものの、残る2つのウォッチブランドのSIHH撤退は時計関係者を驚かせた。

今年が最後のSIHH出展となったオーデマ ピゲのブースは、新コレクションの発表で賑わった
スイーツをテーマとしたコレクションを発表したリシャール・ミル。ブースはまるで異世界

この2ブランドの決断の背景にはブランドの販売戦略が垣間見える。両ブランドに共通するのは、大手資本に左右されない独立系ブランドであり、少量生産であることだ。オーデマ ピゲは年産およそ4万本、リシャール・ミルは数千本。これらを世界中の国々に振り分けるため、販売網も精査して、直営ブティックや信頼のおける専門店のみで販売を行う方針を取り始めている。その分、店舗あたりの取り扱い本数を増やし、ブランドの世界観をしっかりと伝えてコアなファンをつくることが狙いだ。

限られた本数の時計を限られた顧客に届けるならば、多くのディーラーやメディアにプレゼンテーションを行う必要はない。高額な出展料を支払ってまで時計展に参加するメリットよりも、頼れる販売網やソーシャルメディアを駆使してブランドと顧客の強い結びつきを構築していくほうが、将来的な発展につながるという判断だったのだろう。

こうした方策をとって成功を収めたブランドが、かつてある。フランク ミュラーである。1990年代初めのブランド草創期こそSIHHで新作発表を行っていたが、1998年より独自の時計展を開催。WPHH(国際高級時計展)として現在も自社グループ単独での開催を貫いている。オーデマ ピゲとリシャール・ミルが来年以降、どのような新作発表を行うのか、ブランド戦略の面で興味深いものがある。

フランク ミュラー ウォッチランド グループの展示会WPHHは、例年SIHHとほぼ同時期に開催されている

拡大し続ける高級時計市場のゆくえ

そんなややざわついた状況で迎えた今年のSIHHだったが、幕を開けてみれば例年に増して盛況だった。会期が5日間から4日間に短縮したにもかかわらず、昨年比15%増の2万3000人が訪れて賑わいを見せた。かねてから増加傾向にあった中華系のディーラーやメディアがさらに増えた感があり、当国で人気が高いブランドのブースでは多くの中国語が飛び交っていた。

会場には昨年から引き続きSNS用の撮影ブースが設置されたほか、今年は「ラボ」という展示スペースも設けられた。これはデジタル分野やテクノロジー分野における研究開発の成果を披露する場として新設された。例えば、機械式時計の精度誤差や磁気帯びを測定して管理するデジタルツールや、時計のカスタマイズなどに役立つタッチスクリーン、ヴァーチャルリアリティーの技術などが見られた。訪れた人々が楽しみ、驚くさまは、さながら時計のテーマパークのよう。SIHHも生まれ変わろうとしていることを感じさせた。

今年新設された「ラボ」では、ヒューマノイドロボットのペッパーがお出迎え

気になる新作はというと、ここ数年の傾向と同じくトレンドがないのがトレンドというべきか、各社各様の強みを発揮した粒ぞろいの新作という印象だ。

昨年に続き「サントス」ワールドを拡大するカルティエ、2段階の振動数が選べる画期的な機構を発明したヴァシュロン・コンスタンタン、グランドコンプリケーションでマニュファクチュール(自社一貫生産体制)の実力を示したA.ランゲ&ゾーネやジャガー・ルクルト、SIHHラストイヤーを26年ぶりの新コレクションで飾ったオーデマ ピゲ……というように、一時のブーム的な派手さはないものの見ごたえのある新作展示会となった。これらの詳細は、3月のバーゼルワールドで発表される新作の情報と合わせて、「プレジデント」誌や本ウェブメディアでお届けする予定だ。

「ツインビート」という前例のない機構を披露したヴァシュロン・コンスタンタン。ブースには中華系の人々も多く見られた
ブランドの故郷、ル・サンティエから実際に樹木を運び込んだというジャガー・ルクルトのブース

SIHHが終幕して数日後、スイス時計協会FHが2018年のスイス製腕時計の輸出額を発表した。そのレポートによれば、2018年の腕時計完成品の輸出額はおよそ199.4億スイスフランとなり、対前年比6.1%の増加となった。同輸出額は2010年代に入ってから減少を続けていたものの2016年に底を打ち、2017年には回復局面へと突入。2年連続で前年を上回る結果となった。このようにブランドビジネスも高級時計市場も新しい局面を迎えつつある中で、腕時計はこの先どんな価値を創造して人々を引き付けるのか。高級時計がますます面白い時代になってきた。

text:Hiroaki Mizuya(d・e・w)
photo:Kazuteru Takahashi