早すぎたデザイナー、ジェンタとIWCのストーリー
今年のウォッチズ&ワンダーズで、IWCシャフハウゼン(以下IWC)は「インヂュニア」のニューモデルを発表した。直近でインヂュニアの新作が発表されたのが2017年であるから、およそ6年ぶりのローンチとなる。
ニューモデルの要諦は、大きく“オリジンへの回帰”と“ディテールのブラッシュアップ”と見ることができる。前者は、インヂュニアのアイデンティティーとも言うべき耐磁性能が復活したことだ。そもそもインヂュニアは1955年に「初の民生用耐磁性腕時計」として誕生した。エンジニア、技術者、科学者、パイロット、医療関係者……など、日々の業務で強力な磁場にさらされる人々のために開発された経緯がある。近年は一部、耐磁性を省いたモデルもあったが、今年の新作は軟鉄製インナーケースが再装備され、4万A/m(アンペア毎メートル)にも耐え得る耐磁性能を有する。誕生のヒストリーを知るファンのみならず、磁気を発するツールに囲まれて暮らす全ての現代人にとって有用な改良である。
そしてもう一つの焦点が、ディテールのブラッシュアップ。インヂュニアのシグネチャーとなっている意匠は既存を踏襲しながら、一方でケースのプロポーションやダイヤルのパターン、時分針やバーインデックスの形状、ベゼルのビス、そしてケースやブレスレットに施されたポリッシュとサテンの仕上げなど、ディテールに関してはほとんど全てのパーツが見直されブラッシュアップされた。結果、インヂュニア特有のソリッドでタフな印象を残しながらも、より都会的でコンテンポラリーなデザインへと至ったのである。
ところで、インヂュニアの誕生は1955年と前述したが、現行コレクションの原型となるデザインが確立されたのは、それからおよそ20年後の1970年代のことである。転機のキーパーソンとなったのは、腕時計界で名デザイナーとして知られるジェラルド・ジェンタだった。
1970年代、スイスの機械式時計産業は、日本に端を発した“クオーツショック”により壊滅的な状況へと追い込まれていた。機械式よりも精度に優れ、安価で大量生産が可能なクオーツ時計が世界の時計市場を席巻した。加えてのしかかってきたのは、ドルの下落と金価格の急騰。当時、ゴールド製腕時計をメインとして、海外にも販路を拡大していたIWCは、これら“三重苦”のあおりをもろに受ける。活路を見いだすための起死回生のプランがインヂュニアの改変、白羽の矢を立てたのがジェラルド・ジェンタだったのである。
ステンレススティール製のラグジュアリーなインヂュニアを作ってほしい――。IWCからオファーを受けたジェンタは、一体型のケース&ブレスレット、5カ所のくぼみ付きベゼル、そして独特の格子模様をあしらったダイヤルを特徴とする腕時計をデザイン。現行モデルにも受け継がれるインヂュニアのDNAがここに誕生した。こうして1976年に発表された新生の「インヂュニアSL」は、小径・薄型で安価なクオーツ時計に慣れた人々にとってはサイズが大きく高価であったことが響き、ビジネス的には成功とは言えなかったものの、1990年代になるとコレクターの間で人気が沸騰。以来、コアなファンを持つコレクションとなっている。
興味深いのは、ジェンタが提案したデザイン案に対して、IWC側はほとんど何もリクエストをせず、ほぼ原案のままで製品化されたということだ。デザインの完成度もさることながら、実直さや高潔さ、好奇心や進取の気性など、仕事に対する深い部分で通じ合っていたのだろう。ものづくりのフィロソフィーを同じくする両者のシナジーが、後世に熱烈なファンを生むマスターピースを作り上げた。
photograph:IWC SCHAFFHAUSEN
edit & text:d・e・w