職人のような感覚を大切にしている
「四六時中考えているのは、どうしたらオーケストラの裾野を広げることができるのかということ。目の前の演奏で空気が振動する、歓声を上げる、生の拍手を聞くという体験は、新型コロナ禍の前よりも今のほうがずっと価値を感じると思うんですね。その魅力をきちんと発信できれば、もっと多くの方に来てもらえるはず。コロナ禍は“面白いから人が来てくれる”という本質的な部分に発想を戻すきっかけになりました」
佐渡裕さんの肩書には、音楽監督や芸術監督といった役職が並ぶ。単にオーケストラを指揮して音楽を演奏するのみならず、楽団やコンサートホールのトップとして組織を取りまとめる職務も負う。企画を立て、資金集めや予算、動員数といった数字まで見ることも少なくない。さらにホールや楽団が地域の中で果たすべき役割を考えて行動することも、重要な職務の一つ。被災地に出向いて震災復興のためのコンサートを開いたと思えば、子どもたちのオーケストラを指導して後進育成にも励む。この取材の後も、すみだ音楽大使として墨田区の学校の吹奏楽部を指導する予定だという。
音楽家としての範疇をゆうに超え、多彩な活動を行う佐渡さん。自身は「ただ導かれただけ」と謙遜するが、それらの活動はすべてある思いでつながっている。
「例えばオーケストラの公演後に“今日はいい演奏ができた”と感じても、それは数字では表せないもの。その点では、今日の公演は100%完売、というような数字も一つ大事な指標だと思っています。私にとっては“こんなに難しい曲、珍しい曲を演奏してくれてありがとう”と言われても、それほど大きな意味を成さない。それよりももっと多くの人に“オーケストラって面白いですね”と言ってもらいたい。とにかく、一人でも多くの人にオーケストラの魅力を伝えることが私の役目です」
その佐渡さんが仕事上で大切にしている時間を伺うと、「もちろん本番は重要だけど」という但し書き付きで次のように語る。
「指揮者がオーケストラに発する言葉は、大きすぎる、速すぎるなど、否定的な言葉が多いんです。より良い演奏にしていくためには、これは仕方がないことです。だから本番までのオーケストラとのリハーサル時間はとても意識が高まりますね。基本的にはクールを心がけて。脳が冷静でいなければ耳も冷静になれませんから。かといって指揮台の高い場所から冷静に細かくチェックされたら、オーケストラはしんどいですよね。そのあたりの空気を読みながら、時にはジョークを交えつつ奏者と向き合う。指揮者にとっては最も大事な時間と言えます」
オーケストラと向き合う時間を数え切れないほど経験するうちに、佐渡さんの中にある思いが芽生えてきた。かつて佐渡さんが師事した故レナード・バーンスタインの言葉、「指揮者は時間を彫刻する」職人であるということだ。
「例えばガウディのサグラダ・ファミリアは、ガウディという天才がいたのはもちろん重要なことですが、ものすごい数のパーツをこつこつ積み上げていく作業も同じように大事なことだなと思って。音楽というものは、今鳴らしている音がすぐ過去のものになり、1拍あるいは数小節先の音が次々とやってくる。過去、現在、未来が常に進んでいく、いわば“戻らない芸術”なんですね。クラシック音楽は、ベートーベンやモーツァルトらが100年以上も前に作曲した作品を、彼らが残した楽譜からインスピレーションを得て、今目の前で演奏するのですが、私たちの作業で重要なのは一つ一つの音を組み立てていく“こつこつさ”みたいな、職人的な技術にある気がします」
職人と芸術家を融合したような世界があった
そんな佐渡さんには、若手の頃から思い入れの強い時計がある。今から20年以上も前のこと。佐渡さんが30代の頃に初めて仕事で訪れたスイス・ジュネーブの地で、自ら予約して訪ねたのがヴァシュロン・コンスタンタンの本店だった。
「ヴァシュロン・コンスタンタンのアンティーク時計に魅せられて、ひと目でいいから見たいと思って訪ねました。何というか……、例えば90歳を超えた老指揮者がいて、どこを振っているかよく分からないような指揮なのだけれども、その人が指揮台に立つだけでオーケストラが凛とする。その人が入ってきただけで“今日はこんな音が出る”と感じさせる指揮者がいるんです。年を重ねるごとに円熟するオーラというか、カリスマ性というか。それと似たものをヴァシュロン・コンスタンタンの時計に感じたんですね」
改めて述べると、ヴァシュロン・コンスタンタンとは1755年にスイス・ジュネーブで創業し、今日まで268年の間、一度も途切れることなく時計製造を継続する世界最古のマニュファクチュールである。「革新が歴史をつくる」とはよく耳にするフレーズだが、ヴァシュロン・コンスタンタンはまさにその好例と言っていい。新しさを受け入れることを恐れず、時代時代の名機・名作を生み出してきたからこその老舗である。現在、ウィーンにも拠点を置く佐渡さんは、そうした歩みにも共感を覚えるという。
「日本とヨーロッパでは、同じ楽譜通りに演奏してもそこから生まれる音が違うんですね。ヨーロッパで感じたのは、例えば家具を一つ作るにしても、直線ではなく曲線で構成するというフォームがあること。特にオーストリアに行くと、空気が違う、風が違う、光が違う。モーツァルトがいて、ブラームスがいて、ベートーベンがいて、そこには古くから変わらないエレガントさがあって。それが街全体に息づいているんです。ヨーロッパに来てからは音作りでもそういうフォームを意識するようになった。革新とまでは言えませんけれど、新しいアプローチで創作するようになりましたね」
そしてもう一つ、佐渡さんが驚かされたことがあるという。それは、昨年の秋にジュネーブ郊外のプラン・レ・ワットにあるヴァシュロン・コンスタンタンの工房を訪れたときのこと。
「まずは建物や内装、そこで働いている人のすべてが洗練されていること。そして何より驚いたのは、実際に働いている時計職人たちの技量です。部品を作る人、彫金する人、細密画を描く人……。その細かさとクオリティーの高さは、職人と芸術家を融合したような世界だと感じました。私は仰々しいものが好きではないのですが、ヴァシュロン・コンスタンタンの時計はバランスが本当に素晴らしい。私が好きなパトリモニーの時計でいえば、針のカーブ、インデックスの細さ・長さ、ガラスの膨らみ……。印籠のように見せびらかすものではなく、でも見る人が見ればその素晴らしさが分かる。一つ一つのパーツのクオリティーが一体となって、オーラやカリスマ性のようなものを生み出しているのだと思いますね」
高級時計を高級時計たらしめる理由は、細部の仕上げの美しさにあると言っていい。わずか数ミリのパーツや通常は目に見えない部分にまで手を入れて美しさを極めるのが、ヴァシュロン・コンスタンタンの時計作りである。製造するほぼ全製品で、精度と美観の証しであるジュネーブ・シールを取得することもその一つの証左。一つ一つの音に徹底的に向き合って洗練させ、それらをエレガントに組み上げ、刹那刹那の芸術を創作する佐渡さんの琴線に触れたのも至極当然である。“オーケストラのような”という形容がこれほど似合うウォッチメゾンは、ヴァシュロン・コンスタンタンをおいて他にないのだから。
佐渡裕
指揮者。1961年、京都府生まれ。故レナード・バーンスタイン、小澤征爾らに師事。1989年ブザンソン国際指揮者コンクール優勝。その後パリ管弦楽団、ロンドン交響楽団、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団など欧州の名門楽団を多数客演指揮。2015年よりオーストリアのトーンキュンストラー管弦楽団音楽監督。国内では兵庫県立芸術文化センター芸術監督、新日本フィルハーモニー交響楽団第5代音楽監督などを兼任。
©Takashi Iijima
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photograph:Sachiko Horasawa
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