被災地のため、人々のために音楽は何ができるのか
「劇場として一貫してきたのは“心の広場になる”“心にビタミンを届ける”という気持ちです。舞台芸術を通して1人でも多くの人の心を豊かにしたいという思いは常に持ち続けています」
兵庫県立芸術文化センター(以下、芸文センター)は、阪神・淡路大震災の復興のシンボルとして2005年に兵庫・西宮に誕生した。その芸術監督として招聘されたのが世界を舞台にする指揮者、佐渡裕さんである。佐渡さんに与えられたミッションは、一般的な芸術監督のそれとは大きく異なり、震災に見舞われた人々の“心の復興”だった。
とはいえ、佐渡さんが芸術監督に着任した2003年当時は、兵庫の街はいまだ復興の途上。芸術にかける予算があるなら「うちの家を直してほしい」「生活の支援を」という被災者の生々しい声も耳に届く。心を復興するには心を知らねばならない。芸術監督としての当初の活動は、兵庫の人々と対話を繰り返し、心情を汲み取ることだった。
芸文センターのオープン後は、芸術監督として公演の企画から予算組みや資金集め、動員数といった業績まで目を配るほか、世界中から選抜した若手音楽家による専属オーケストラ(兵庫芸術文化センター管弦楽団)を率いる。さらに小学生から高校生までの子どもだけで編成したスーパーキッズ・オーケストラ(SKO)の指揮も行い、兵庫県内のみならず東北や熊本の被災地に出向いて復興コンサートを開催するなど、東奔西走し続けてきた。
これら全ての活動の根底にある思いが冒頭のコメントだ。被災地のため、そして人々のために何ができるかを自問自答しながら走り続けること20年、芸文センターの公演は開館時から盛況を博し、年間50万人を動員する実績を積み重ねてきた。いつしか「兵庫の奇跡」と称されるようになった。
「クラシック音楽の演奏会に定期的に足を運ぶ人は、おそらく人口の3%程度。残りの97%の人にどうやって来てもらうかということをスタッフ全員で試行錯誤した結果でしょう。象徴的なのがオペラ公演です。日本でオペラ公演を満席にするのはなかなか難しく、しかも2回公演となると大阪や神戸などの大都市でも大変。そんな中で芸文センターのオープンの翌年に、『蝶々夫人』の6回公演が完売し、さらに2回の追加公演まで完売したのです。その時はゼネラルマネージャーはじめスタッフ皆で作戦を練りに練った。絶対成功させるという強い思いがありましたね」
現在、夏のオペラは恒例公演となり、おおむね10日間で8回の公演を行う。会期中に2度3度と来場する人もいる。千秋楽のフィナーレでは観客総立ちで喝采を送り、佐渡さんですら「あんな光景は世界中どこでも見たことがない」と話すほどの盛り上がりを見せるという。オペラに限らず芸文センターの公演はこの20年で着実にファンを増やしてきたが、佐渡さんは「まだまだ満足していない」と、語気を強める。
「確かに数字的には良い結果を出したと思います。でも劇場は常に進化しなければならないし、オーケストラももっと上を目指さなければならない。良い作品を作ることはもちろん、どうしたらこの劇場がもっと愛されるかということを考える必要があります。この20年で素地ができたとすれば、これからは常に疑問を持ち、変化を求めていかなければならない。変化がないところに進化はありませんから、これからが重要です」
“幸せなら手をたたこう”で感じた音楽の力
人々にもっと愛される劇場になる――。そのためには良い演奏をすることが何よりも欠かせない。現在、佐渡さんは芸文センターで前述の2つのオーケストラを指揮する。奏者の年齢やキャリア、バックグラウンドによって指導法を変えることはあるが、誰にでも同じように伝えていることがある。
「音楽には法則があります。高いところから落ちるとスピードが増す、川幅が広がったら水の流れが遅くなる、といった自然の法則と同じように。ここのシーンで吹いている風は横に吹いているのか、それとも上昇しているのか。この音はその場で足踏みしているのか、それともどこかに向かって歩いているのか。楽譜に書かれていることもありますが、書かれていないこともたくさんあるんです。それをイメージして、なおかつさり気なく表現できるかどうかで演奏の質は大きく変わる。イメージの大切さを伝えることは私の重要な役目ですね」
そしてもうひとつ、佐渡さんが若い音楽家たちに伝えたいことがある。それは佐渡さん自身が身をもって体験し、改めて気付かされた音楽の力と言うべきもの。被災地で開催した復興コンサートでのことだった。
「毎年、SKOと一緒に東北や熊本などの被災地を訪ねるのですが、皆さん本当に心待ちにして演奏を聴いてくれます。ある年、会場に1人の女の子がいました。聞くと、震災で両親を亡くし1人取り残されてしまったそうです。コンサートの途中、“幸せなら手をたたこう、パンパン”と皆で手をたたく一幕があるのですが、その瞬間にふと見ると、その子が涙を流しているんです。パンパンと手をたたきながら、ぽろぽろと」
世界の舞台で活動する佐渡さんにとっても、この経験は“音楽とは何か”を深く考えさせられるものだったという。
「音程を直す、テンポを与える、バランスを取る、それが指揮者である私の仕事です。名曲や難解な大作も素晴らしいし、良い音響を持つホールも音楽の感動を高める要素です。でも、音楽には音楽以上のことがあるんですよ。被災地にガスが戻った、電気が戻った、水が戻った。ものすごく重要なことです。ただ、人が生きるというのはそれだけではない。1杯のコーヒーのおいしさに感動する、ギターひとつあれば皆で歌が歌える、音楽を通して一緒に生きているんやって実感できる。被災地の仮設会場で演奏する“幸せなら手をたたこう”がどんな名演よりも聴いてくださる人の心を癒し、力になることがある。この劇場はこれから建物も設備もどんどん古くなっていきますが、このことを忘れずにいればより愛される劇場になっていくと思いますね」
身に着ける喜びを感じる時計、その理由
芸術監督に就任してから20年を超え、芸文センターの活動は「もはやライフワークのよう」と愛着を持つ。その佐渡さんが近年、人生を共にする“ライフウォッチ”のように気に入って着用している腕時計がある。スイス・ジュネーブの高級時計メゾン、ヴァシュロン・コンスタンタンの「パトリモニー」である。
「秘書というかマネージャーというか、いつも自分のそばにいて面倒を見てくれる大事な人のような存在。私は結婚指輪以外のジュエリーは着けないので、身に着けるものといえば腕時計くらい。すごく品のあるものを身に着けている喜びを感じますね」
必ずしも腕時計を着ける必要のないこの時代に、腕時計を着けることに喜びを感じる。さながら佐渡さんにとっての“心のビタミン”というべきものなのだろう。実はヴァシュロン・コンスタンタンは、佐渡さんが20代の頃から憧れ続けてきたウォッチメゾンである。数あるモデルの中でも琴線に触れたのが、ラウンド形ケースの「パトリモニー」。シンプルでありながら「豊かさを感じるから」と、その理由を説く。
「音楽には時代性があります。時代によって曲がシンプルになったり複雑になったり、あるいは作曲家によって楽譜に細かく書き込んだり、ほとんど書かなかったり。それと同じように、腕時計にも時代の流れがあると思うんですよね。その時々の潮流のようなものが。その中で、パトリモニーにはどの時代の人が見ても心地よく感じる黄金比の美しさがあると思う。針の長さや角度、カーブ、それにダイヤルの広さやわずかな膨らみ。もっと高価なもの、もっと派手なものもあるんでしょうけれど、私はこのバランスの良さが気に入っています」
ヴァシュロン・コンスタンタンは来年、2025年に創業270周年を迎える。時代のニーズを加味しながらも、創業以来“美しい時計を創る”ことを一貫してきた。その流れの中で2004年にコレクション化されたのがパトリモニーであり、今年はそれから20周年の節目となる。シンプルに徹しながらもケースやラグのフォルム、針やインデックスの意匠で巧みにオリジナリティーを創出し、「遺産」を意味するネーミングは黄金比が織り成す普遍的な美しさを未来に残そうとする意志さえ感じさせる。数あるコレクションの中で最もシンプルなパトリモニーのデザインには、ヴァシュロン・コンスタンタンというメゾンの本質、ひいては高級腕時計の本質が息づいているのである。
「腕時計は詳しくないので……」と謙遜するも、その本質を佐渡さんはおそらく本能的に感知したのだろう。豊かさを届ける者は、すべからく豊かさを解する感性を持つ。腕時計は人となりを映し出す――その好例を見た思いである。
佐渡裕
指揮者。1961年、京都府生まれ。故レナード・バーンスタイン、小澤征爾らに師事。1989年ブザンソン国際指揮者コンクール優勝。その後パリ管弦楽団、ロンドン交響楽団、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団など欧州の名門楽団を多数客演指揮。現在はオーストリアのトーンキュンストラー管弦楽団音楽監督、兵庫県立芸術文化センター芸術監督、新日本フィルハーモニー交響楽団音楽監督などを兼任。
©Takashi Iijima
衣装(リハーサル中のカットを除く):ジャケット11万5500円、ニット4万5100円、パンツ8万8000円
Yohji Yamamoto POUR HOMME/ヨウジヤマモト プールオム/ヨウジヤマモト プレスルーム
TEL:03-5463-1500
photograph:Hisai Kobayashi
edit & text:d・e・w