イノベーションは中心ではなく周辺から起こる
歴史の長さをうたうブランドは少なくないが、ヴァシュロン・コンスタンタンがそれらと明らかに一線を画すのは、創業から270年の間、一度の中断もなく時計事業を継続している点にある。二度の大戦や恐慌、そしてスイス時計産業に壊滅的なダメージを与えた1970年代のクオーツショックの後も例外ではない。時代時代の名機・名作を創造し続けてきたからこその270年である。メゾンに携わる人が変わろうと、新しさを創造する開発精神は脈々と受け継がれ、途絶えることがない。
その老舗メゾンに新風を吹き込むのがこの人、サンドリン・ドンガイ氏である。プロダクトマーケティングのトップにして、イノベーションディレクターという珍しい肩書も持つ。とはいえドンガイ氏は、時計師でもなければ、設計者でもない。前職はコスメティック業界である。はたして、そんな人物に機械式時計のイノベーションが起こせるのか――。
そんな取材前の懸念は、とどのつまり、杞憂に終わった。本当のイノベーションは、物事の中心ではなく周辺から起こる。開発の余地が少ないとささやかれる機械式時計の世界に風穴を開けるのは、ドンガイ氏のように広範な視点で、俯瞰して見ている人なのかもしれない。イノベーションディレクターが見据える革新のビジョンを聞いた。

ウォッチメーキングを通して何を届けるのか
――本日はよろしくお願いします。ヴァシュロン・コンスタンタンに入られてほぼ7年、振り返るといかがですか。
【サンドリン・ドンガイ氏(以下略)】入社した段階でメゾンには全ての素材がそろっていました。プロダクト、デザイン、クリエーティビティー、ノウハウ、そして人。ただ、少しレシピを変えていく必要があった。レシピを変えて、スパイスを加えて、味を調整して……。それが私の役割でした。
――レシピを変えるとは? 象徴的なプロダクトはありますか。
昨年発表したコンセプトウォッチの「エジェリー・ザ・プリーツ・オブ・タイム」ですね。これは、2つの分野を初めて時計製造と組み合わせたものです。ひとつはクチュールのデザイナー、イーキン・インとのコラボレーションで、もうひとつが香りのオートパフュームとのコラボです。香りの出るストラップを、ナノテクを駆使して作りました。今までにはなかった分野を合わせたもので、とても印象深いプロダクトです。

――もともとコスメティック業界にいらっしゃったドンガイさんらしい発想です。
異なる分野を組み合わせたいと思っていました。というのも、時計はただ時を示すだけのものではなく、さまざまな価値や創造性を映すものです。その領域を押し広げたいと思っています。このモデルは予想以上の反響がありましたね。
――では、今年の新作の中で、一番の自信作は?
ひとつ選ぶのならば、「トラディショナル・トゥールビヨン・パーペチュアルカレンダー」です。今年はメゾンの創業270周年ということで、ウォッチメーキングに対する正統性を示したかった。このモデルはトゥールビヨンとパーペチュアルカレンダーという2つの複雑機構を一緒にしたもの。文字盤にはマルタ十字のモチーフのギヨシェ装飾を手彫りし、ムーブメントにはコート・ユニークという特別な装飾を施しました。機構的にも装飾的にも高級時計製造のノウハウを示すもので、私たちのメゾンをよく象徴しています。

リピーターはなぜ今でも15分単位なのか
――イノベーションディレクターとはなかなか聞き慣れない役職です。日々、どんなことに取り組んでいるのですか。
文字どおりイノベーション、革新に関する研究ですね。ただ、単にウォッチメーキングだけを見ていては、変革は起こせないと思います。私はよくチームに、自動車、航空、化学、生物、自然……といった他の分野にも視野を広げるように、と言っています。例えば、チャイム時計なら鳥。あの小さい体から素晴らしい音色を奏でますよね。他の分野に目を向けることでインスピレーションを得ることが重要です。
――機械式時計に関する開発は頭打ちになりつつあり、今後、イノベーションは起きにくいという風潮もあります。ドンガイさんには、革新のアイデアがいくつもあるのですか。
最初にお話しした、レシピを変えるということ。違った角度から物事を捉えたり、考えたりすればいいだけだと思います。表示方法、リュウズの位置、操作性、装着性、機能のセッティング、巻き上げ方法なども、もっと違う考え方があると思う。私からすると、時計業界はまだそこまで進化していない。まだまだ新しいことはできると思います。
――今、楽しみにしているものはありますか。
先ほどのチャイム時計から例を挙げるなら、ミニッツリピーターです。既存の機構は、1時間・15分・1分単位で異なる音が鳴りますよね。はるか昔から変わらない仕組みですが、今の時代に15分を数えることをしますか? 音で時刻を知らせるというコンセプトは守るけれど、もっと現代的な時刻の伝え方があるのではないかと思うのです。
――確かにそうですね。音が鳴り終わるまで時刻が分からないという難点もあります。
そうです。私たちは脳科学分野の大学と共同研究を行っています。そこで分かったのは、人間の脳は7つのシークエンス、7つの連続したもの以上は記憶できないということです。既存のミニッツリピーターですと、例えば11時59分を知らせる場合、28回も音が鳴ります。とすると、人間の脳ではどこかが記憶できないことになる。音をもっとコンパクトにして、記憶できる7つのシークエンスで時刻を知らせることができるのではないか。これが本当に実現するかどうかは別ですよ。でもイノベーションというものは、スタートしてからどこに行き着くか分からない。こういった考え方で物事に取り組んでいるということです。
――伝統を踏まえながら新しい方法を模索する姿勢は、ヴァシュロン・コンスタンタンというメゾンそのものです。今後のプロダクトを楽しみにしています。本日はありがとうございました。

問い合わせ情報
ヴァシュロン・コンスタンタン
TEL:0120‐63‐1755
photograph:VACHERON CONSTANTIN
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