日本人の精緻な手仕事と独自の美意識
この連載ではブリティッシュスタイルとイタリアンスタイルを中心に、世界の最高峰のビスポーク・テーラーを紹介してきた。
今回は世界から注目を集めている日本のクラフツマンシップを取り上げたい。19世紀後半に始まった日本の洋装は、日本人の精緻な手仕事の技量に、東西折衷文化の歴史が育んだ独自の美意識が加わった結果、ついに世界から高く評価される水準にまで達したのだ。現在その筆頭に立つテーラーが「サルトリア・チッチオ」である。
サルトリア・チッチオを主宰する上木規至(のりゆき)氏は福井県生まれ。「注文服のような着心地の既製服」を標榜し、日本でも有数の技術を誇る既製服メーカー、リングヂャケット(1954年創業)に入社したことが、上木氏のテーラーへの道を運命づけた。
上木氏が勤務していた当時、リングヂャケットでは、ナポリタンスタイル(サルトリア・ナポレターナ)のスーツならではの快適な着心地と、高い職人技術が活かされた分業制による量産体制を研究していた。ここでナポリタンスタイルの持つ、柔らかく軽い仕立てとその美しさに魅せられた上木氏は、2003年にナポリへ渡った。
本場ナポリでは、ナポリ仕立ての名職人ルイジ・ダルクオーレ氏、そしてアントニオ・パスカリエッロ氏のもとで修業を積んだ。
「ルイジ・ダルクオーレ本人が自らをサルトというよりはアーティストだと語っていました。その言葉通り、サルトの型に囚われないユニークで自由な発想のできる人です。逆にアントニオ・パスカリエッロはサルトとしてナポリの中でも特に精緻な仕立てを追求していました」。
このように、個性の全く異なるマエストロから、ナポリタンスタイルが醸し出す柔らかさや色気、手縫いによる端正なつくりを上木氏は学んだ。
日本に帰国後、2008年にサルトリア・チッチオを立ち上げ、2015年に現在の青山のオーダーサロンと工房をオープン。ル・コルビジェのソファが置かれたコンテンポラリーなインテリアのサロンは、サルトリア・チッチオのハウススタイルをそのまま投影している。
海外では、日本の職人は“パーフェクション(完璧性)”を追求していると言われている。これに対し、連載で紹介してきたナポリタンスタイルの巨匠たち、レナート・チャルディ氏やアントニオ・パニコ氏が追求していると語ったのは“不完全の美(インペーフェクション・ビューティー)”である。
上木氏が自らのスーツで表現しているのは、ナポリタンスタイルをベースに、この相反する美学が融合したサルトリア・チッチオ独自のスタイル。これが海外で高い評価を受けている理由のひとつだろう。
ハウススタイルは比較的広めのラペルに低めのゴージラインがリラックスした雰囲気を醸し出している。襟足から首に吸い付くような滑らかなショルダーラインは正確な職人技によるものだ。肩パッドを使わず、すっきりとナチュラルな袖山、ビスポークの仕立てによくみられるノーベントを用いている。また、イタリア語でマヌカ・フォルケッタ(フォークの袖)と呼ばれるラグランスリーブコートも人気がある。
現在は香港でトランクショーを行っているが、直接、東京・青山の店を訪れる海外の顧客も多く、その比率は半分以上になるという。
今までアジアのテーラーは高い技術がありながら、西洋の模倣の範囲を超えたと評価されるテーラーはごく少数だった。アジアの経済と文化が台頭してきたことで、メンズウェアの世界地図は大きく変化している。
メンズウェアにおける“メイド・イン・ジャパン”の快進撃は始まったばかりだ。サルトリア・チッチオは、そのなかでアジアのテーラリングを牽引していく存在となっている。
長谷川喜美/Yoshimi Hasegawa
ジャーナリスト。イギリス、イタリアを中心にヨーロッパの魅力を文化の視点から紹介。メンズスタイル、車、ウィスキー等に関する記事を雑誌を中心に執筆。最新刊『サルトリア・イタリアーナ(日本語版)』(万来舎)を2018年3月に上梓。今年、英語とイタリア語の世界3カ国語で出版。著書に『サヴィル・ロウ』『ハリスツィードとアランセーター』『ビスポーク・スタイル』『英国王室御用達』など。