時空は観測者の運動状態によって、遅れたり歪んだりして変化するものである。

みなさんご存じの、アインシュタインの相対性理論です。「時間は観測者ごとに存在する」という点において、私が考える時間とはこの相対性理論のようなものです。時間とは絶対的なものではなく、その流れる速さや濃密さ、あるいは時間の価値というのは、まさに人それぞれだと思うからです。

このような考えに至ったのは、私の職業である靴磨きの経験からでした。

20歳のころ、私は靴磨きを始めました。それまでやっていた日雇いの仕事がぱたりとなくなり、食うに困って思い付いたのが靴磨きだったのです。選んだ場所は、多くのビジネスマンが行き交う東京・丸の内。100円ショップで靴磨きセットと風呂用の椅子を二つ購入し、家から持参したダンボールを敷いただけの粗末な設え。いわゆる昔ながらの路上の靴磨きとしてデビューしました。ただ、丸の内は靴磨きの激戦区。翌年には品川駅に移ります。

このころ私が設定していた料金は、10分で500円でした。相場もだいたいこの程度。忙しいビジネスマンに移動のついでに靴磨きを利用してもらうには、短時間・低料金でなければならなかったのです。

それからおよそ4年後、1日数十人のお客さんがやって来るようになり、私は路上を離れて店を持つことを決めます。靴磨きの仕事に可能性を感じ、「靴磨きの地位を高めたい」という思いからでした。店のイメージはオーセンティックなバー。店内にバーカウンターを設置し、お客さんには靴を脱いで椅子に腰掛けてもらい、カウンターを挟んで会話をしながら靴を磨くというまさにバーのようなスタイルです。

そこで悩んだのが料金設定です。それまでの自分は10分500円。当時一番高かったのが、確かホテルオークラの靴磨きの方で、15分で1200円くらいだったと思います。新しい店では時間を60分に延ばし、丁寧に磨き上げることを決めていたものの、料金も同様に6倍に上げるのはさすがに無理だろう、1000~1500円くらいが妥当だろうと考えていました。

ところがあるとき、私のお客さんだったIT企業の社長にこの話をすると、こんなことをおっしゃった。

「できる限り高く設定したほうがいいよ。そのほうが、どうすればその値段で利用してもらえるかを考えるようになるから」

この考えにはっとさせられた私は、1500円、3500円、6000円の三つのコースを用意しました。松竹梅の三つの選択肢があると竹を選ぶことが多いという人間の心理から、3500円のコースが最も選ばれるだろうと踏んだのです。60分3500円なら店の経営もなんとかなる、と。

しかし、いざ店をオープンしてみると、お客さんの95%近くが選んだのは1500円のコースでした。私の目論見は見事に外れ、店は3年連続赤字というにありさまに。ただ、その代償に(しては痛すぎる赤字でしたが)発見もありました。それは、来店してくれる人が路上時代とはまったく違う客層だったことです。

路上時代のお客さんのほとんどは、いわゆる一般的なビジネスマン。着るものや履く靴にもそれほど執着がなさそうで、品川駅前という都合のいい場所にあるから、移動ついでに靴磨きを利用する人たち。

対して、店にやって来るのはいかにもファッションが好きそうで、靴にも愛着を持っている人々。しかも、表参道の駅から7、8分は歩かねばならないこの店に、わざわざ足を運んでくれる。

この「ついでに」から「わざわざ」というのは予想以上に大きいのではないか。この店で過ごす靴磨きの時間に価値を感じてくれる人たちを相手にすれば、靴磨き職人の地位もより高められるのではないか。

確信があったわけではないけれど、店の経営は待ったなしのところまで来ていました。私は一度店をクローズし、リニューアルして再出発することを決意。サービスの内容や質を見直して、料金の値上げに踏み切りました。

その額は、60分で2400円。お客さんに値上げの理由を丁寧に説明したところ、一部のお客さんは離れましたが、継続して利用してくれる人も多く、さらにその方々の口コミなどのおかげで客数は伸びました。それでも店の経営は不安定だったので、その後60分4000円+指名料(1000~2000円)へと再改定を行いました。その際も同じように、私たちの仕事を理解して継続利用してくれる人が多くいたのです。

高いと感じるか、安いと感じるかはお客さん次第。一般的な価格、いわゆる相場より高くても、それを上回る価値があれば利用してくれる人は必ずいる。そう気付かされました。

だいぶ特別なケースですが、お客さんが価格以上の価値を感じてくれた60分にはこんなこともありました。今年6月のこと、新宿・歌舞伎町に50年近く続く「愛 本店」というホストクラブの老舗が、ビルの老朽化のため現在の店舗をいったん閉店することになったそうです。

私は店に行ったことはなかったのですが、テレビやインターネットで見聞きしていたあのゴージャスな空間がなくなる前に一度靴磨きをしたみたいと思い、店に頼んでみました。するとその願いを聞き入れてくれて、私に2時間だけ店を貸してくれることになったのです。さっそく靴磨きの希望者をSNSで募集。限定2名、金額はフィナーレのお祝いということで、思い切って10万円。即、売れました。

当日は、お客さんと一緒に絢爛豪華な店内を見て回り、「ここで数々の笑いと涙が生まれたんですね…」などと50年の歴史に思いを馳せたあとで靴磨きへ。お客さんは10万円以上の体験になったと満足され、私も生涯忘れることのない時間になりました。単にゴージャスな空間というだけだったらこれほど特別な時間にならなかったでしょう。伝説的なクラブの50年という歴史が、時間の価値を高めたのだと思います。もっとここで靴磨きがしたい……なんて思いながら過ごした2時間はあっという間でした。

時間は観測者ごとに存在する。そう唱えたアインシュタインさんにこの体験を話したら何と言うでしょうか。もしかしたら「一緒にするな!」と怒られるかもしれませんが、私の中では通ずるものがあるように思えるのです。

長谷川裕也(はせがわ・ゆうや)
靴磨き専門店などを展開するBOOT BLACK JAPAN 代表取締役。靴磨き職人。1984年千葉県生まれ。製鉄所勤務、英語教材のセールスを経て、2004年に丸の内の路上で靴磨きを開始。翌年、品川駅に移る。08年に南青山の骨董通り近くにカウンタースタイルの靴磨き専門店「Brift H」をオープン。17年にはロンドンで開催された靴磨きの世界大会で世界一に輝いた。

Direction & Interview:d・e・w
Illustration:Hiroki Wakamura