古い時計に高機能を付加する“夢”のオイル
「それまでの潤滑油には大きく4つの問題がありました。金属を腐食すること、プラスチックに浸透して潤滑性能を落とすこと、経年変化を起こしてゲル化(糊状化)すること、温度特性に劣る、すなわち低温では粘度が上がり潤滑しなくなってしまうことです」
これらの問題を克服するために、赤尾さんは基油の選定、化学構造の分析、基本特性の研究などといった分子レベルの研究に着手した。それまでは金属腐食性をなくすことと高度な潤滑性とは二律背反だと思われていたが、それらを両立する中性亜燐酸エステルという化合物を発見。さらに従来は2層構造だった潤滑油の分子を3層構造とし、それぞれの層に特定の機能を持たせるなど、さまざまな研究が行われた。
こうして約5年半を経て2002年に完成したのが「AO-オイル」だ。まず際立つのが優れた温度特性である。粘度の高さを示すcSt(センチストーク)値を見ると、摂氏-30℃で従来油は42500、AO-オイルは2279と、その差は歴然。また金属だけでなく、プラスチックやゴムなど幅広い素材に対応する点も特筆すべき点。機械式の高級機から一般向けの普及機まで、このオイルが一つあれば、あらゆるムーブメントに対応できる。
さらに驚くのが耐久特性だ。シチズン時計が行った輪列耐久試験によれば、注油10年目でもAO-オイルの性能はほぼ変わらず、さらに20年目でも同等の性能を保つという。
「潤滑油のメリットは、どんなメーカーのどの時計にも差すことができること。そしてこれからつくる時計だけでなく、これまでに販売したあらゆる時計に差すことができることです。つまり過去をさかのぼって、古い時計に高性能を付加することができるのです」
性能の高さが認められ、業界標準の潤滑油に
これほど高性能な潤滑油であれば、自社製品にだけ使用するという選択もあっただろう。だが、シチズン時計はAO-オイルが完成すると、特許を出願したうえでまずは日本メーカーに対して使用を認めた。高級時計の代名詞となっていたスイス製に追いつくため、そして当時台頭し始めていた中国勢と差別化を図るために、ジャパン・クオリティーを世界に打ち出したいという狙いがあったためだ。その後、AO-オイルの性能は業界で評判となり、現在は世界各国の時計メーカーが使用するようになった。いわば、業界標準の潤滑油となっているのである。
時計の歴史を振り返ると、時刻を“正確に”“永続的に”表示する画期的な発明が起こり、その後スタンダードとなって現代の腕時計に受け継がれているものがある。このAO-オイルはまさにそうしたレベルの発明だと言っていいだろう。
「AO-オイルが完成してからも潤滑油の研究は進めています。潤滑油にはまだまだ進化の余地があるからです」と話す赤尾さん。あと5年ほどするとAO-オイルの特許権が切れるため、来るべき時代に向けて新しい潤滑油の開発を進めているのだという。光発電エコ・ドライブ、電波時計、そしてAO-オイルと、さまざまな分野からメンテナンスフリーへと近づいてきたシチズン時計が、この先どんな潤滑油を開発するのか。あるいはほかに画期的な発明を起こすブランドが現れるのか? 時計のメンテナンスフリー化に、今後も注目したい。
text:d・e・w