作家の吉村喜彦さんによる、酒にまつわる逸話やおいしい飲み方を紹介する連載「in vino veritas(イン・ヴィーノ・ヴェリタス)」。直訳すれば「酒に真実あり」となります。これまで多くの取材や旅を通じて感じた酒の魅力を語ってもらいます。第10回目は、イタリア生まれのリキュール、アペロールの話。

イタリアに「アペリティーヴォ」という習慣がある。
アペリティーヴォとはアペリティフのこと。ちょっとしたものを摘まみながら、食事前に軽く一杯飲むのである。
ヴェネツィアに行ったときのこと。
地元の人がよく行くバーカロ(居酒屋)で、老若男女がオレンジ色のドリンクを飲んでいるのが目についた。
昼すぎの、ちょうどアペリティーヴォの時間帯だった。
ひかりがグラスに射して、透きとおったオレンジ色が、きらきらと美味しそう。
「あれは何?」
と店のひとに訊くと、
「スプリッツというアペリティーヴォです」
「スプリッツ?」
「ええ。アペロールをプロセッコで割ったものです」
とこたえた。

アペロールは北イタリア・ヴェネト州の街パドヴァで生まれたリキュールで、アルコール度数は11度と低めである。
オレンジやルバーブ、キナ、ゲンチアナなどから作られる。
オレンジの香りが爽やかに立ち、味わいはビタースイート。さっぱりとした後味が特徴だ。
そのアペロールを白ワインとソーダで割ったり、同じヴェネト州生まれの辛口スパークリングワイン=プロセッコで割ったものを総じてスプリッツと言うようだ。もちろんシンプルにソーダだけで割ってもいい。
ヴェネツィアはヴェネト州の州都。
まさに地元のリキュールとスパークリングワインから生まれたものが、このアペロールのスプリッツである。

アペロールのスプリッツは、度数もほどほど、甘さも控えめ、ビターなテイスト。昼下がりから夕刻にかけてのんびり楽しみたい

スプリッツは、ワインのソーダ割りであるスプリッツァーから派生して生まれたようだ。
もともとスプリッツァーは、オーストリアで生まれたが、19世紀、パドヴァはオーストリア領だったことから、アルプスを越えて伝わったらしい。
アペロールが生まれたのは、ほぼ100年前の1919年だそうだ。
パドヴァの市場で開かれる青空市で売れ残ったオレンジを、袋に入れて絞った果汁が発酵して、たまたま、それを飲んでみたら、美味しかった――というのが、そもそもアペロールの始まりだったそうだ。

ウイスキーの樽熟成にしても、お酒の誕生には「たまたま」ということが多くて、そこがなんといっても面白い。
偶然から飛び火して、すごいことが生まれる。まさにセレンディピティー(素敵な偶然、予想外のものを発見すること)である。

ヴェネツィアの運河をすべっていくゴンドラを眺めながら、飲んだスプリッツは忘れがたい。
皿に盛られた小さなパニーノやブルスケッタ、茄子とチーズのはさみ揚げなどをつまみながら、陽が傾くのをぼんやり眺めながらゆっくり飲む。
旅から帰ってくると、そういう何げない時間がいちばん記憶に残っていたりする。
そういえば、スプリッツにオリーブを入れて飲んでいる人もいた。
イタリアでは、いまやカンパリよりもアペロールが人気で、とくにこれからのパーティシーズンはアペロール・スプリッツの季節だという。

『酒の神さま』(ハルキ文庫)

吉村喜彦さんの連作短編小説集、バー・リバーサイドの第3弾が好評発売中。東京・二子玉川にある架空のバーを舞台に、ベテランマスターの川原と若いバーテンダー琉平、そして個性的な客たちが夜毎織り成す物語。マスターが選ぶ一杯の酒が、心に刺さった小さなトゲを洗い流してくれる。

text:Nobuhiko Yoshimura
photograph:Katsuyoshi Motono
location:TENZO